ガラスの歴史 第2章~古代・中世のガラス~
皆様、ガラスのお勉強のお時間になりました。
ガラス屋で働き始めて丸2年、何故か疑問にも思わなかった『ガラスって何?どこから来たの?』
どうも、こんにちは コダマガラス キャンベルです。
意外とガラス屋も知らないガラスの歴史をまとめてみました、パート2!↓
古代のガラス
『玻璃』や『瑠璃』とも呼ばれていたガラスは『ビードロ(ポルトガル語)』や『ギアマン(オランダ語)』とも呼ばれていました。これらの呼称は実際に日本でも昔にガラスのことをこのように呼ばれていました。
呼称だけでも様々ある『ガラス』の歴史を第一章から引き続き、第二章でもご紹介しようと思います。
エジプトのアレクサンドリアで、『宙吹き』と呼ばれる製造法が紀元前1世紀の後半に発明されました。
ガラス製造といえばよく見る『吹きガラス』の技法で、ベンチと呼ばれる作業台等を使用し、空中で吹き上げていく技法のことです。
一般的にガラス製造と言えばこの方法を思いだされる方も多く、ガラス体験等はこの技法を使用されることが多いです。
この技法が発明されたことにより、安価なガラスが大量に生産され、食器や保存器として用いられるようになりました。
この技法はローマ帝国全域に伝わり、ローマガラスと呼ばれるガラス器が大量に生産され、東アジアにまで伝わることとなります。
この時期には板状のガラスが鋳造されるようになり、ごく一部の窓にガラスが使用されるようになりました。
また、豪華なガラスも引き続き製造されていましたが、ローマ帝国の衰退とともにガラスの技法も停滞することになります。
しかしローマガラスの技法を受け継いだのが『ササングラス』と呼ばれるもので、シルクロードを通ってササン朝ペルシアで製造されたグラスです。
円形模様のカットに特色があり、正倉院蔵にある白瑠璃碗はその1つです。
このようにローマ帝国でのガラス技法は停滞しましたが、東ローマ帝国の治める地中海東部やササン朝ペルシアや中国の北魏や南朝では引き続き高水準のガラスが製造されていき、全世界に広がって行きます。
日本では福岡県の須玖五反田遺跡などで古代のガラス工房があったことが確認されています。
この頃の板ガラスの製造方法は、手吹き法によりガラス球を造り、遠心力を加えて平板状にするもので、仕上がった円形の板を、大きさや形に切り出すことができました。
また、この技法によって凹凸はあるものの一応平板なガラスを製造することには成功したのです。
中世のガラス
次に登場したガラスの技法は、ササン朝ペルシアのガラスの技法を引き継いだのがイスラムガラスです。
イスラムガラスとは紀元前7世紀から19世紀にかけてイスラム圏で作られたガラスを指し、イスラムガラスの技法は『ラスター法』と呼ばれています。
色鮮やかな柄の入ったステンドガラスのような技法で、この技法は陶器にも用いられたが、先にガラス窓として使用され広まりました。
また、9世紀から11世紀の中東では、カット装飾が多用された。また、東ローマ帝国では盛んにステンドグラスが製造されました。
8世紀頃から、西ヨーロッパでもガラスの製作が再開した。
12世紀には教会にゴシック調のステンドグラスが備わるようになり、13世紀には不純物を除いた無色透明なガラスがドイツ南部やスイス、イタリア北部に伝来するようになります。
良質の原料を輸入できたヴェネツィアのガラス技術は名声を高めることとなりましたが、大火事がおきた事と機密保持の観点から1291年にムラノ島に職人が集中・隔離されることになります。
ここでは精巧なガラス作品が数世紀にわたって作られ、15世紀には酸化鉛と酸化マンガンの添加により屈折率の高いクリスタルガラスを完成させるに至りました。
他にも、色ガラス・エナメル彩色・レースグラスなど美しい装飾と高度なガラス工芸技術がベネチアのムラノ島で花開きました。
15世紀には西欧各地でさかんにステンドグラスが製造されていたこともあり、当時の板ガラスは吹いて作ったガラスを延べてアイロンがけすることで作られるようになりました。
この頃の日本では8世紀から16世紀までガラス製造が衰退することになり、大半のガラス容器は輸入でまかなっていました。
ガラス製造が衰退した背景としては、日本では陶器の発展に原因があるとされています。
キャンベル独断のまとめ
やっとこさ、私達が知っているガラスの顔になって来ましたね!
ガラスが日本で約800年間衰退してたことにビックリですよね!
そーいや、ガラスって洋風なイメージがあるのってそういう背景があったからか~と…色んな発見がありますよね
このブログだけではガラスの歴史をフワッとしか知れないと思いますので、是非ググって見て下さいね~
では、次回『ガラスの歴史 第三章』をお楽しみに!